サブストーリーNo.1『ひらがなレッスン』
― CHAPTER1/6 棘と飴 ―
カフェタイムのピークが過ぎた頃、休憩室からは今日も声が聞こえてくる。
「いち、にーぃ、さぁーーん……」
不規則なリズムで数字を唱えるあまねの手元には、歪な文字。お手本のひらがなと睨めっこしながら、ゆっくりと鉛筆を動かしている。鉛筆はシンプルな木目調で、小学生向けの大きなマス目が羅列されたノートには、お手本のひらがなが手書きで丁寧に書きこまれていた。
桃色の髪の毛とクマの耳という人間離れした容姿のあまねだが、ノートと向き合うその姿は宿題に取り組む人間の子どもそのものである。
そんなあまねの向かいには、いちかが座っている。ふわっとカールした白の長髪。時折、鉛筆が這う音に合わせて髪と同色の猫耳が動く。あまねが人間の子どもなら、いちかは娘の宿題を「監視する」母親と言ったところだろうか。
口角を目一杯に上げたいちかは、あまねの鉛筆の動きをじっと見守っていた。
「あーぁ!なんで人間界の文字ってこんなに難しいんだろう!僕そろそろ疲れたなぁ。お菓子が食べたいよー!」
そんないちかにあまねは物怖じせず、いつもの調子で話しかける。いや、物怖じしないのではなく、気が付いていないようだ。いちかの目が全く笑っていないことに。
「あまね、お勉強っていうのは毎日コツコツするものなの。毎日の練習をサボらないで少しずつでもやっていれば、今頃スラスラ書けていたのよ?」
精一杯の作り笑顔で、宥めるような猫撫で声で発せられた言葉だったが、隠しきれない棘が垣間見える。しかし、あまねはそれすら気が付かない。
「うーん、それはそうかもだけどさ……魔法で文字が書けるようになったら楽ちんなのに」
先ほどまで貼り付けていた笑顔が、いちかの顔から剥がれ落ちた。椅子から立ち上がり、黙って休憩室から出て行こうとドアノブに手をかける。
「いちかー!どの行くの!?もしかしてお菓子……」
あまねの言葉を遮り、いちかは心の奥から絞り出すように言った。
「……そんなの…魔法でできちゃったら、意味ないわ」
「へっ?いちか…」
ドアがバタンと音を立て、あまねはひとり残された。くちいっぱいにキャンディを詰め込んだかのように、むーっと頬っぺたを膨らませる。
「なんで怒るの!?いちかなんてもう知らないもん!ひらがなの練習もやーめた!」
鉛筆をノートの上に投げ出し、あまねも休憩室から飛び出した。
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― CHAPTER2/6 成長 ―
甘い香りに誘われて、あまねの足はふらふらと厨房に向かった。厨房では、エメラルドグリーンの髪を白いリボンでおさげにまとめたほたるがデザートの仕込みをしているところだった。
「わぁー!いい匂い!」
ほたるの長い耳があまねの声に反応してピクッと跳ねる。それから振り向いて、あまねの小さな姿を確認した。
「あれ、あまね?ひらがなの練習は終わったの?」
あまねは先ほどの出来事を思い出し、一瞬不服そうな表情を浮かべた。ほたるはそれを見逃さなかった。
「ま、いっか!あまね、お疲れ様!これディナータイムに出すデザートの試作なんだけど、告知用の写真も撮れたから食べていいよ!」
「いいのー!?ほたるありがとう!」
あまねの顔がパーっと明るくなった。くるくると目まぐるしく変わる表情は微笑ましく、ほたるはくすっと笑った。
「いただきます!……うーん、美味しい!やっぱりほたるのお菓子は最高だぁ。これ、なんていうお菓子?」
「桃のタルトとミックスフルーツのシャーベットだよ。あたたかくなってきたから、冷たいスイーツもいいかなって!」
「この綺麗なフリルみたいなの、桃なんだ!さすがほたる!シャーベットもひんやりしてて、それに甘酸っぱくて美味しい!」
「よかった!ご主人様とお嬢様も喜んでくれたらいいな。」
「絶対喜ぶよ!ほたるの気持ちがいっぱい詰まってるもんね!」
装飾のフルーツやソースまで味わい尽くした後、お皿をシンクに入れようとあまねは立ち上がった。
「ごちそうさまでした!お皿、こっちでいいかな?」
「はーい!そのままで大丈夫だよ。」
「お皿洗いくらいやるよ!ほたるはお仕事の続きしてて!」
「そう?ありがとう!じゃあ、お願いします。」
背が低いあまねには高さの合わないシンク。その下には、あまね専用の踏み台が収納されていた。それを引き出して上ると、視界が広くなったかのように感じる。
ふと見回すと、ズラッと整列した調味料のビンやピカピカの調理器具が目に入った。壁や床も汚れひとつなく、日頃厨房を使うほたるとめるの几帳面さが伺える。
調味料のビンに視線を戻した際、五十音順に並べられていることに気がつく。ビン1つひとつには、各調味料の頭文字を書いたシールが貼り付けてあった。少し前までひらがなもまともに読めなかった自分の成長に気が付き、先ほどまでのやり場のないモヤモヤに晴れ間が見えてきた。
「……ほたる、あのね、もしもほたるが誰かと喧嘩したらどうする?」
泡立てたスポンジでお皿を洗いながら、あまねは呟くように言った。
「やっぱり、いちかと喧嘩したんだね!」
「へっ!?なんで分かったの!?ほたるも魔法で心が読めるの!?」
あまねのぱっちりした瞳が一際大きく見開かれる。
「いやいや、あたしはそんな魔法使えないよ。」
「魔法かぁ……そういえば僕、いちかに魔法で文字が書けるようになったら楽ちんなのにって言ったんだ。そしたらいちか、魔法で書けたら意味ないって言って、出て行っちゃったの。」
「なるほどね。いちかは勉強家だから、もしも魔法でできちゃったら今までいちかがやってきたことが無駄になっちゃうって思ったんじゃないかなぁ。」
あまねはハッと口を開いたかと思えば、考え込むように眉をひそめ、それからしょんぼりと涙を目に浮かべる。
子犬のしっぽのように感情表現豊かな様子はやはり微笑ましく、思わず頬が緩みそうになるが、言葉を続けた。
「でもね、いちかがあまね以外に怒ってるところ、見たことないんだよね。どんなに嫌なことを言われても、いちかはいつもニコニコ笑ってる。あまねのこと信じてて、大好きだから気持ちをぶつけてくるんだってあたしは思うよ。」
「いちかとめるが僕に文字を教えてくれる時、2人はすっごく仲良さそうで……でも、いちかって僕にすっごく厳しいんだ!それって、そういうことだったのかなぁ?」
「そういうことだと思うよ。それに、きっと期待してるんだよ。あまねはちゃんとできる子だ、って。」
「そうなのかな。そうだといいな。」
あまねは独り言のように呟くと、洗い終えたぴかぴかのお皿を丁寧に拭いてから棚へ戻した。それから、シンクの下へ踏み台を戻すため屈みこむと、踏み台の側面に呪文のような文字が書いてあることに気が付いた。それは、あまねが自分自身で書いたものだった。いちかが書いた「あまね」という文字を、見よう見真似で書き写したのを思い出す。今よりもずっと歪でたどたどしい文字を見ていると、ふつふつといちかに会いたい気持ちが湧いてきた。
「悪いことしちゃったな……。僕、いちかに謝ってくるよ!」
「うんうん、いってらっしゃい!」
「ほたる、ありがとう!またね!」
あまねはスキップのような軽い足取りで厨房を後にした。
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― CHAPTER3/6 整理のち晴れ ―
お店の二階にある住居の共同リビングでいちかはひとり、ため息をついた。
「はぁ……ちょっと言いすぎたかしら。」
壁に貼ってあるあいうえお表をぼんやりと眺める。思い返せば自身も、人間界の言葉や文字を覚えるのには苦労したものだ。
人間界に興味を持ったのは、ちょうどあまね程の齢だっただろうか。小さい頃から勉強が好きだったいちかは、魔法図書館へ通っては書物を読み漁っていた。そんなある日、人間界に伝わる古い民話が記された書物と出会う。
その書物の中に、年老いた猫が主人に恩返しをするという話があった。ストーリーそのものの記憶は定かでないが、やけに深く心に残ったことだけは覚えてる。それから一年もせず人間界に関する書物のうち、魔法界の言葉に翻訳されたものは全て読み終えていた。それでも人間界への好奇心は収まらず、人間界の言葉で記された書物も読んでみたいという欲求が芽生えたのだった。
それからは本格的に人間界の言語(特には日本語と呼ばれる言語)に関する勉強に励んだ。魔法界の言語とは文字の作りも文法も全く異なっており苦労したが、毎日コツコツと必死に勉強した。努力の甲斐もあり、二年ほどで大体の書物は読解できるようになっていた。
始めは今のあまねと同じように、ひらがなを何度も繰り返し書き写したものだった。懐古の情に襲われ始めた頃、階段を上がる足音が聞こえてきた。どこか柔らかでやさしい足音。めるのものだろう。
「あれー?いちかちゃん、こんなところでどうしたのー?」
案の定、足音の主はめるだった。入り口からひょこっと顔を出しためるの紫色のツインテールとウサギの耳がぴょんぴょんと揺れている。
「あら、めるこそどうしたの?私は、ちょっと休憩していたの。」
「そうだったのー。いちかちゃん、お疲れ様。めるはねー……これ!ハンカチを忘れちゃったから取りに来たのー。そういえば、今日あまねちゃんとひらがなのお勉強するって言ってたと思うの。無事に終わった?」
ほんわりとした雰囲気とは裏腹に、ズバッと核心を突かれて狼狽える。そこでつい、本音を吐露してしまう。
「実は……」
あまねに少し言いすぎてしまったことからここで何を思い出していたのかまで、事の顛末を説明した。
「そんなことがあったのー。いちかちゃんはお勉強いっぱい頑張ってきたから、あまねちゃんがお勉強をサボってるみたいに見えて嫌だったのかなぁ。でもね、あまねちゃん、いちかちゃんに文字を教えてもらうようになってからずーっと上達したとめるは思うの。」
めるが言っていることは確かに共感できた。以前と比べ、あまねの読み書きできる文字は格段に増えた。それはいちか自身もよく感じている。だからこそ理解できないのは、あの時 どうして自分があんなにも憤りを感じてしまったのか、という点だ……と思考を巡らせたところで思い当たった。
「あまねがあの時『魔法で文字が書けるようになったら楽ちんなのに』って言ったの。その言葉が引っかかっていたのだけど、昔似たことを言われた覚えがあるわ。」
その出来事は思い出すことも憚られるほどに衝撃的で、心の奥底にしまい込んだ記憶だった。おかげですっかりその存在を忘れかけていた。
そうだとしたら、なんて自分勝手な感情で行動してしまったのだろうと思う。しかしその反面で、あまねが軽率な発言で自身の地雷を踏んだことにも非はあるとも思われ、どうしても素直に謝る気にはなれなかった。
「める、ありがとう。少しだけ自分の気持ちが整理できたみたい。」
「ふふ、それならよかったのー。早く仲直りしてね。じゃあ、めるはそろそろ戻るね。」
めるの優しい足音が遠ざかり、沈黙が訪れる。あいうえお表をよく見ると、あまねが鉛筆でなぞったであろう凹凸がぴかぴかと反射して見えた。
それから思いっきり伸びをして、立ち上がる。窓の外は快晴、散歩日和だ。
「気分転換にお出かけでもしようかしら。」
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― CHAPTER4/6 疑問符 ―
桃色の三つ編みやリボンを揺らしながら、あまねはいちかを探していた。休憩室やお店、住居を探してもいちかは見つからない。あと調べていない場所は倉庫だけだった。
扉をあけて、名前を呼ぶ。
「いちか!いちかー!ここー?」
「ひゃっ!!」
あまねの声に驚いた様子で、こはくが振り返った。倉庫では、こはくが机や椅子の修繕作業をしていたようだ。
琥珀色の長髪は毛先にかけて茶色のグラデーションになっている。いつもは下ろしている髪を、今日は珍しくポニーテールのように結っており、愛用しているベレー帽は傍に置かれていた。修繕に魔法を利用しており、魔具である大きな筆を両手でぎゅっと握りしめている。
「あ、あれ…あまね、ちゃん……?」
涙目のまま視線を逸らしたが、あまねの姿を確認でき安堵した様子だった。
「わわ、こはく、びっくりさせてごめんね!いちかを見なかった?」
「いちかさん、ですか…?さっきまでここにきてましたよ。机や椅子を運ぶのを手伝ってくれて…」
こはくの目線の先には、いくつかの机や椅子が積まれていた。どれも所々色褪せていたり、歪んだりしているようだった。
「そうなんだ!僕、いちかを探してるんだけどどこにもいなくて…どこに行ったか知ってる?」
「そういえば、オススメの文具屋さんを聞かれました。そう遠くはないお店なので、そこに行っているのかも。」
それは店内隈なく探しても見つからないはずだ。同時に、いちかが怒ってどこかに行ってしまったのかもしれないという不安が払拭され、あまねは安堵した。
「それなら、帰ってくるのを待とうかな!ありがとう、こはく!
……ところで、いちか怒ってたりした?」
こはくが首をかしげる。あまねの目には、こはくの頭上に『はてなマーク』が浮かんでいるように見えた。
「怒ってはなかったと思いますよ。どちらかといえば、ウキウキしてるように見えました。」
「へっ!?なんで!?僕が悩んでいる時に!?ウキウキーッ!?なんでー!?」
「あ、あまねちゃん……落ち着いて…!」
大騒ぎするあまねを、こはくは必死になだめた。
「ここに来た時のいちかさんは、少しだけ元気がないように見えました。だけど、理由は分からないんですが…オススメの文具屋さんを教えたら、ウキウキした様子で出ていったんです……」
次はあまねが首をかしげる番だった。
「いちかって文房具好きだっけ……?まあ、いっか!こはく、ありがとうね!」
「いえ……。またいつでも遊びに来てくださいね。」
あまねは手を振り、倉庫を後にした。
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― CHAPTER5/6 影 ―
夕刻のあきはばらは、人通りが激しい。みみめるカフェはメインの通りからは少し離れた道に面しているが、それでもかなりの往来があった。
あまねはお店の前に設置された飴型の椅子に腰掛け、足をぷらぷらと遊ばせながらいちかを待っていた。
「はぁ。いちか遅いなぁ……何してるんだろう……。」
桃色の髪の毛とメイド服は、メイド喫茶が乱立するあきはばらといえど相当目立つようで、度々視線を感じる。視線から逃れるように、じっと自身の足元を見ていると、誰かの影が自分に重なった。影の主に目を向けると、真っ赤な夕日を背に見覚えのない男の人が立っていた。
「ねえ君、ここのお店の子?」
短い黒髪に眼鏡をかけた、ごく普通の高校生……?夕方で伸びた影のせいだろうか――異様に身長が高く感じられ、違和感を覚えた。
「うん、そうだよ!お客さん?ごめんね、夜のオープンまでもうちょっと時間があるんだ。」
「用事があるのは、お店じゃなくて君だよ。」
この時、先程まで絶えず流れていた人の波が、ぱたりと途絶えていることに気が付く。
「もしかして……使い魔?」
先程まで人の形をしていたモノがぐにゃりと音を立てて歪み、大きな黒い塊と化した。
「みみめるのお前ヲ捕らえレバ、俺は不老不死のカラダを、手にイレラれる。」
塊から、真っ黒な腕のようなモノがあまねに向かってゆっくりと伸ばされる。それが纏うドス黒い空気に圧倒され、あまねは金縛りにあったかのように動けない。
「動けないダロ?コれが俺の能力。さア、キテもらうゾ」
異様に長く歪な腕のようなモノは、あまねの目と鼻の先まで迫っていた。
「ひっ……たす、けて…いちかぁ……」
掠れた声を絞り出した。刹那、長く暗いトンネルから晴天の中に飛び込んだかのようなまばゆい光に包まれる。
「L’obsPurication!」
黒い塊は、甲高い叫び声をあげながら光の中に呑まれていった。
「あまね!大丈夫!?」
聞き慣れた声と同時に、喧騒が遠くから戻ってくるのを感じた。いや、いつもの場所へ帰ってきたのはあまね自身だった。春の宵の風に吹かれた白い髪と猫耳がふわふわと揺れる。あまねはいちかの姿を確認すると、先程までの恐怖から解放されたことと、ずっと探していたいちかにようやく会えた安心感でいっぱいになった。そして、堰を切ったように溢れ出したのは涙だった。
「うわーーーん!いちかーー!」
大粒の涙を流しながらいちかに縋り付く。幼いながらも強い魔力を持つあまねが、使い魔に対し恐怖心を抱くのは初めてだった。よほど怖かったのだろう。幼子のように泣きじゃくるあまねの頭をいちかは優しく撫でた。
「よしよし。怖かったね。」
使い魔と魔法発動の気配を感じ取っためるとほたるは、慌てた様子で店から駆け出してくる。こはくは、おびえた様子でドアの隙間から外の様子を確認すると、恐る恐るこちらへ歩み寄ってきた。
「いちか、あまね!大丈夫!?」
あまねはみんなの姿を見ると安心した様子だった。泣き腫らした顏でにいっと八重歯をむき出しにして笑うと、小さな手で作ったピースサインをみんなに向けた。その様子に、3人は安堵する。
「みんなーーー!ただいまーーーー!!」
「うふふ、あまねも私も無事に帰って来られてよかったわ。
さあ みんな、ディナータイムの営業はこれからよ!頑張りましょう!」
みんなそれぞれに顔を見合わせ、くすくすと笑うと、声を揃えて言った。
「おー!」
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― CHAPTER6/6 しあわせ ―
ディナータイムの営業も多くのご帰宅で賑わった。
ほたるの新作デザートは大好評で、後に多くの写真がSNSに出回ったそうだ。こはくが修繕しリノベーションした新しい机や椅子は、新規だけでなく常連のご主人様やお嬢様の目も楽しませた。めるは密かに、新しいパフォーマンスを考えていたようだ。魔法でハンカチからケチャップの容器を出し、お絵描きするという斬新なアイディアに歓声が上がっていた。あまねもいっぱいの笑顔で楽しそうに接客をしていた。いちかはみんなの様子をバックヤードから眺め、時折ご主人様やお嬢様とお話をしたり、みんなのフォローをして、慌ただしく時間が過ぎていった。
ディナータイムの営業は、大盛況に終わった。
営業後、一通りの片付けも済んだ静かな店内。いちかとあまねはソファに腰を降ろす。ゆっくりと座るのは、カフェタイム後の休憩以来だった。
「はぁー、疲れたぁ……。いちか、お疲れ様!」
「ふふ、あまねもお疲れ様。今日は特に良い笑顔だったわね。」
「今日はいろいろあったけど、みんながいてくれて本当に良かったって思ったの!そしたら、いつもよりもっともっと楽しかったんだ!」
それからあまねは、隣のいちかにからだを向け、真っ直ぐに瞳を見つめて言った。
「いちか、あのね……。夕方はごめんなさい!僕、いちかに酷いこと言っちゃったと思う。」
「気にすることないわ。私もちょっと言い過ぎたと思うから、ごめんね。……そういえば、あの騒ぎですっかり忘れてたけど……。」
いちかは何かを思い出したかのように、おもむろにバーカウンターへ向かった。カウンターの裏から、紙袋を取り出す。袋には、こはくが紹介したであろう文具店のロゴマークが小さく書かれている。
「これ、あまねに買ってきたの。お詫びって程のものではないけど……あまねもこっちの方がきっと頑張れるんじゃないかと思って。」
「へっ!?ありがとう!なんだろう!?」
紙袋を受け取ると、あまねは嬉しそうに中を覗き込み、それから無邪気な歓声を上げた。
「わぁーー!!てってけクマ吾郎の鉛筆とノートだ!嬉しい!僕がこれ好きなの覚えててくれたの!?」
いちかは照れ隠しか、頬に手を当てて微笑んだ。
「喜んでくれてよかったわ。これでまたお勉強、頑張りましょうね。」
「うん!ありがとう!いちかだーいすきッ!」
二人はこの時、同じことを考えていた。
心から笑い合えている今この瞬間が 一番のしあわせだ、と。
サブストーリーNo.1『ひらがなレッスン』 Fin
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