サブストーリーNo.2『雨と虹』
― CHAPTER1/7 憧れ ―
「ううっ……なんで、なんでこんなことにぃ……。」
今にも泣きだしそうな怯えた表情で、絵原こはくは立ち尽くしていた。目深に被った麦わら帽子の広いつばを、か細い両手がきゅっと握りしめている。
六月初旬、容赦なく降り注ぐ陽射しと強い照り返しは、初夏の兆しどころか真夏と錯覚するほどである。
こはくは、数メートル先に居座る“とあるもの”から目が離せないようだ。
“それ”は、多足の虫でも、ライオンのように獰猛な動物でも、使い魔でもなく――
「きゃん!」
毛玉のような、まんまるの子犬だった。舌を出し、目を輝かせ、しっぽをぶんぶんと振りながら、こはくを見つめている。真っ赤な首輪をつけているが、周りに飼い主らしい人は見当たらなかった。
あきはばら裏路地、レンガ造りの小さな橋の上。いつものように風景のスケッチへ出かけた帰り道、あまりの暑さに普段は通らない近道を選んだのだった。
こはくが住むみみめるカフェは、橋を渡ったすぐ先であるが、子犬の横を通り抜ける勇気はなかった。
引き返そうにも、背を向けた瞬間にどうなるかは目に見えている。画材の詰まった大きなボストンバッグに、イーゼルを背負っている今、歩くことすらままならないのだから。とはいえ、例え手ぶらだったとしても運動が苦手なこはくはすぐに追いつかれてしまうだろう。
生き物全般――特に近寄ってくる人懐っこい動物――が苦手なこはくにとっては絶体絶命の状況だったが、異常な速さで駆け巡る思考回路を冷静に見つめる自身もいて、他人事のように驚いた。
こはくが橋の上で途方に暮れていると、背後から馴染みの声が聞こえた。
「おーい!こはくー!なにしてるのー?」
駆け寄ってくる足音が聞こえるが、目を逸らしたすきに子犬が飛び掛かってくるのではないかと思い、振り向けない。
「ほ、ほたるちゃん……子犬がぁ……。」
碧見ほたるは、そこでやっと状況を理解した。
「わぁー!子犬だー!任せて、こはく!」
そういうと、エメラルドグリーンの髪と白いリボンを太陽のように輝かせながら、こはくの視線の先にいる子犬に歩み寄る。
そして、子犬の前にしゃがみこみ、手を鼻の先に差し出した。小さな鼻が指先のにおいを確認するのを見届けると、ほたるはふわふわの小さな頭を両手で思いきり撫でた。
「よしよしよーし!かわいいね、どこからきたの?」
子犬は撫でられることに夢中で、ちぎれそうなくらいに尻尾を振り回している。その様子を見ていると、先日いちかと喧嘩して厨房に遊びに来たあまねのことが想起され、くすりと笑みがこぼれる。
そんなほたるの様子を、こはくはぼんやりと眺めていた。たった数歩先の距離なのに、遥か遠くに感じる背中。いつも自分は、この数歩を踏み出す勇気が足りないのだ。一方で、ほたるはいとも簡単に進んでいってしまう。
ほたるは子犬を抱きかかえて立ち上がった。
「ねえ、こはく!この子の飼い主、探しに行こうよ!あたしが抱っこして歩くからさ!」
「ちょっと怖いけど、それならいいよ……。」
「ありがと!あ、でも荷物がいっぱいだから大変だよね!あたしも買ったもの置いて行きたいから、一回お店に戻ろっか!」
眩しいくらいの笑顔をこはくに向ける。ほたるは、いつもそうだった。前へ前へと進んでいく力を持っているのに、こはくを絶対ひとりにしない。歩幅を合わせて、一緒に歩んでくれる。そんなほたるは、こはくにとって憧れの存在だった。昔から、そうだった。
二人と一匹はお店に向かって、歩きはじめた。
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― CHAPTER2/7 喧嘩するほどなんとやら ―
「ただいまー!」
玄関のドアを開けると、ちょうど百詠あまねと目が合った。
ところどころに茶色のメッシュを入れた桃色の髪。いつもは三つ編みにまとめている髪を、今日は珍しく降ろしている。ふわふわでまるいクマの耳には、ピンクのリボンが揺れる。
「あ!おかえりー!ほたる、こはく!って、あれーっ!?子犬だ!可愛いーっ!うちで飼うの!?」
一息で言い終えると、まんまるの瞳を輝かせながら子犬に顔を近づけた。子犬はあまねをじっと見つめ、ぶんぶんと尻尾を振り回す。まるで二匹の子犬を見ているようだ。
「首輪をしてるから、迷子になっちゃったんだと思う。今からこはくと、飼い主を探しに行くんだよ。」
「なーんだ!残念!」
「ところであまね、その髪の毛どうしたの?」
あまねはほんの一瞬だけ、ピタッと動きを止めた。それから、サーっと顏が青ざめる。
「あっ……。そうだ!じゃあ、僕はこれで!ばいばーい!」
そう言うと、あまねは二階へ全力で駆け上がっていった。それからワンテンポ遅れて、鈴鳴いちかが現れた。ウェーブしたふわふわの真っ白な髪の毛に、同色の猫耳。手には、ヘアブラシを持っている。
なるほど、あまねが走り去った理由はこれかと合点がいった。
いちかは、ほたるが抱える子犬を確認したが、特に驚いた様子も見せずに言った。
「あら、おかえりなさい。そのわんちゃん、どうしたの?」
「いちかさん、ただいま……!迷い犬です。今からふたりで、飼い主を探しに行こうと思って……。」
「そうなの。すぐに見つかるといいわね。見つかるといえば、あまねを見なかった?」
ほたるは、心の中で謝罪しながら答える。
「あまねなら、今さっき階段を上がって行ったよ。」
「ありがとう、ほたる。荷物は玄関に置いていいからね。気を付けて行ってくるのよ。……ふふ。二階なら、もう逃げられないわね。」
悪役さながらの笑顔を浮かべ、いちかは階段を上っていった――
荷物を置くと、二階からドタバタと走り回る音と、ふたりの声が聞こえてきた。
「あまね、みつけたわよ!」
「ぎゃーッ!来ないでー!」
「なんで逃げるの、めるがいないから代わりに結んであげようと思ったのに!」
「だっていちか下手くそなんだもん!そんなに強く引っ張ったら髪の毛取れちゃうよ!」
「あまねの我慢が足りないからよ!ほら、早くこっちへきなさい!」
「いちかの鬼ィーーーッ!!」
不思議そうに首をかしげている子犬。その様子に、ほたるとこはくは顔を見合わせて笑った。
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― CHAPTER3/7 揺らめき ―
身軽になった二人がまず向かったのは、子犬と出会った橋の上。辺りを見回すと、川に沿って住宅が立ち並んでいる。
「まずは、この近くの家を周って聞いてみよう。小さいし、きっと近くから来たはずだよ。」
「うん……!私がこの子と出会ったのはお店に戻るときだから、多分、お店側から来たと思う。」
「了解!じゃあ、いこっか!」
―――何軒か尋ねたが、それらしい情報は得られなった。
「うーん、すぐに知ってる人が見つかるかと思ったんだけど、案外難しいね。」
「そうだね……!橋からだいぶ離れちゃったし、ここで最後にする…?」
「そうだね!もしダメだったら……、それはダメだったとき考えよう!」
白壁の小さな一軒家。インターフォンを鳴らすと、若い女性の声が聞こえた。
「はい。どちら様でしょうか。」
「こんにちは!あたしたち、この近くで最近オープンした喫茶店の者です。迷子の子犬について聞きたいことがあって来ました。」
「分かりました。少しお待ちください。」
プツッと通話の途切れる音がして、奥から足音が聞こえてくる。こはくが一歩下がり、ほたるの後ろに隠れたところでドアが開いた。
「こんにちは……って、あなたたちもしかして、みみめるカフェの子たちですか?」
「はい!そうです!」
「やっぱり!普段もその格好なんですね。一度、妹を連れて遊びに行ったことがあるんです。可愛いスイーツばっかりで、妹もとっても喜んでました。」
女性は20代半ばほどだろうか、透き通るような真っ白な肌に、長く暗めの茶髪をひとつに束ねている。優しく、儚げな笑顔からこはくは目が離せなかった。初対面であるはずだが、どこか懐かしく、親しみを覚えた。
「わぁ、嬉しいです!みみめるカフェのスイーツは、あたしが作ってるんですよ!」
「そうなんですか!近いので、また遊びに行きますね。」
「ありがとうございます!それで、本題なんですけど、この子に見覚えはありませんか?そこの橋のところで迷子になっているのを見つけたんですけど、近くに飼い主らしい人もいなくって……。」
子犬はほたるの腕の中で落ち着いたのか、こっくりこっくりと舟を漕いでいる。
「うーんと……ごめんなさい、分からないです。私、あまり外に出ないから……。でも、この辺りのわんちゃんたちがよくお散歩に行く緑地は知っています。よかったら、案内しましょうか?」
「いいんですか!?助かります!やったね、こはく!」
こはくはそこで初めて、自身が女性をずっと見つめていたことを自覚した。女性は気付いていない様子だったが、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。視線を逸らし、いつにも増してたどたどしく頭を下げ、言葉を発した。
「よ、よろしく…お願い、します……。」
「いえいえ!この近くですし、気にしないでください。こっちですよ。」
先ほどまでうとうとしていた子犬も、完全に眠っていた。ほたるは子犬を両腕に抱えたままゆっくりと、女性のあとをついていく。小さなぬくもりを起こさないように――何より、心の揺らめきを落ち着けるように。隣を歩くこはくも、きっと同じことを考えているだろう。
都会の喧騒と隣り合わせとは思えないほどに閑静な住宅街を進むと、少しずつ自然が増え始め、こどものはしゃぐ声が近づいてきた。気が付けば、先程までの肌を刺すような日差しが和らいでいる。空はぼんやりと白く霞み、遠くに灰色の雨雲が見えた。
「つきました。ここです。」
「ありがとうございます!本当に助かりました。」
「ありがとう、ございました……。」
「いえいえ。帰り道、分かりますか?」
「はい!あとはあたしたちでなんとかします!雨が降りそうなので、お姉さんも気をつけて!」
「ありがとうございます。飼い主さん、はやく見つかるといいですね。それじゃあ、私はこれで。」
手を振り別れ、離れていく女性の小さな背中。角を曲がって、姿が見えなくなるまで見送った。こはくのどこか寂しげな横顔を、ほたるは横目で見ていた。何か言葉をかけようと口を開こうとした時、
「きゅーん……。」
子犬はいつの間にか目を覚ましたようで、切なそうに鼻を鳴らした。
「わ、ごめんごめん!そうだよね、早く飼い主に会いたいよね。雨が降ったらみんな帰っちゃうだろうから、急ごう!ほら、こはくもいくよ!」
「あ、うん……!」
こはくは女性が去った曲がり角をもう一度見つめ、それからほたるの後に続いて緑地へ足を踏み入れた。
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― CHAPTER4/7 雲行き ―
一面の芝生と、まばらに生えた木々、木製のベンチ。広い土地だが見通しはよく、全体の様子が一望できた。重く濁った雨雲は先ほどよりも近くに感じるが、幸いにもまだ多くの人で賑わっている。
芝生の中央付近で、年代や性別も異なる人々が集まり談笑しているのが見えた。犬を連れているという共通点がそのコミュニティを成立させているようだ。輪の中心は初老の女性と見受けられる。
「こんにちはー!聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
あきはばらとはいえ、ここはメイン通りからは離れた住宅街。エメラルドグリーンの髪の毛に獣の耳という奇抜な見た目の女の子に突然話しかけられ、戸惑っているのが伺える。
「びっくりさせちゃってごめんなさい!この子、向こうの通りにある橋の上で保護したんです。迷子になってたみたいで。見覚えはありませんか?」
ほたるの耳の先からつま先までを訝しげに見ていた初老の女性は、そこでようやく子犬を抱きかかえていることに気が付いたようだった。眉間に寄せた皺が少し和らいだように感じる。人間は共通点を見つけると親しみを感じる生き物だと、いちかが言っていたのを思い出した。
「そういうことだったの。その子、よくここで見る子に似ているね。ほら、いつも小学校低学年くらいの女の子が抱っこして歩いてる……。」
同じ輪にいた人々も、女性の言葉に続けた。
「あぁ、あの子ですね!首輪の色もこんな感じだったと思います。」
「確かいつもあのベンチのあたりで、その子と遊んでいたと思いますよ。」
「ショートカットの子だね。いつもにこにこしていて、優しそうな感じだよ。」
ようやく有力な情報を手に入れることができ、ふたりは安堵した。
「それなら、そこのベンチで待ってみようと思います!情報ありがとうございました!」
頭を下げ、ふたりは輪から離れた。
子犬とその飼い主がいつも遊んでいるというベンチへ腰掛けると、子犬は落ち着いたようだった。
空は鉛のような灰色の雲ですっかり覆われてしまっていた。重たい空を見上げながら、こはくは考え事をしていた。子犬と出会ってからここに至るまで、自分はほたるの後をついてきただけだった。子犬を抱えるのも、手がかりを探すのも全部――。自分にできることは、何だろうか。
「雨、降りそうだね……。住宅街の真ん中で魔法を使うのはさすがに気が引けるから、傘を買ってこなきゃ。確かすぐそこにコンビニがあった気がするから、買ってくるよ。」
ほたるは子犬を抱えたままベンチから立ち上がった。このまま全てをほたるに任せるわけにはいかない。
「ま、待って……!」
こはくの絞り出した声に、ほたるは振り返った。
「こはく?どうしたの?」
「あの……私、行ってくるから!ほたるちゃんはここで待ってて……!子犬、抱えたままじゃ大変、だから……。」
徐々に小さくなっていく頼りない声。一度呼吸を整え、こはくは続けた。
「私じゃ子犬のこと見ていられないし、私も私のできること、したいから……。」
ほたるは驚いた顏をしたが、いつも通り八重歯を見せてにいっと笑った。それから、ベンチに座り直す。
「じゃあお願いしちゃおっかな!この子と一緒に待ってるね!」
「うん……!それじゃあ、行ってきます。」
こはくは立ち上がり、歩き出した。どんどん遠ざかっていく背中。やがて緑地の外へと踏み出し、見えなくなった。それから足元に視線を落とすと、小さな緑の芽を見つける。
「ちゃんと前に進んでいるよ。こはくも、あたしも。」
ひとりごとのように呟いた。湿ったあたたかい風が、ほたるの髪と白いリボンを揺らす。それから、ぽつりと冷たい雫が頬にあたった。
「雨だ……。」
小さな雨粒がしとしとと音を立てて、降り始める。
ここまで案内してくれた女性を見送る際に見た、こはくの寂しげな横顔がふと頭をよぎった。きっと今も、同じことを思い出しているのだろう。
あの人と出会ったのは、ちょうどこんな日だった。
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― CHAPTER5/7 雨、回想 ―
内気でおとなしく、いつもひとりぼっち。魔法図書館で本を借り、公園のベンチで読みふけるのが日課。碧見ほたるは、そんな子どもだった。
数ある本のなかでも、主人公が未知の世界を冒険する物語が好きだった。冒険の目的は、世界にある美しいもの全てをその目に焼きつけること。魔法の力を持たない主人公は仲間と助け合いながら、あらゆる困難を乗り越えていく。
今日借りたのは最終巻。数々の冒険の末に、どのような結末が待っているのか。いつものベンチに腰掛け、わくわくしながら頁をめくった。
世界の美しいものを目に焼き付けた主人公は、無事に故郷へ帰る。そこで冒険の中で出会った美しい景色の数々を話した。今までどんなに努力をしても魔法を使えなかった主人公だったが、その美しい景色を国の人々にも見せたいと強く願うと、魔法の力が開花。見た景色を映し出す魔法を使えるようになったのだった。
――長い冒険の末、手に入れたのは世界で一番美しい『魔法』だった。そして彼は、本当の冒険者になったのだ。
と、締めくくられていた。
裏表紙を閉じると、ほたるの目から涙が溢れ出してきた。その涙は感動によるものではなく、悲しみによるものだった。
ほたるにとって、主人公は憧れの存在だった。魔法が使えなくても明るくて、周りに素敵な仲間がたくさんいて――と言うのも、当時のほたるは魔法が使えなかったのだ。
魔法の国に生まれた者は生まれつき魔法が使えるわけではなく、魔法学校に通って学ぶことで魔法を身に付けていく。ほたるも魔法学校に通っていたが、周りと比べると魔法の上達速度は遅かった。そして同期で魔法がひとつも使えないのは、とうとう自分だけになってしまった。年下の後輩たちも、どんどん魔法が使えるようになっていく。皮肉なことに、焦れば焦るほど魔法はいうことを聞いてくれない。学校には居場所がなくなってしまったような気がして、魔法図書館へ逃げるようになったのだ。その時出会ったのが、この本だった。
けれど、魔法を使えるようになって、本当の冒険者になった主人公。自分とは、違うのだ。縋り付いていたものが一気に崩れ去ったかのような感覚。ぽつぽつと、膝にあたたかい雫が落ちる。やがてそこに、冷たい雫も混ざり始めた。
「雨だ……。」
やるせない気持ちを洗い流してくれるように感じられ、このまま雨にうたれていようと思った。灰色の空を見上げても、涙は止まらなかった。雨は徐々に強くなっていく。エメラルドグリーンのショートカットが濡れて、顔にはりついた。
「ねえあなた、大丈夫?」
聞き覚えのない声に驚いた。声の主は、綺麗な若い女性。雨の中、女性は全く濡れていない。雨除けの魔法だろう。白いリボンでひとつに結った髪がさらりと揺れる。
「……大丈夫、です。心配してくださってありがとうございます。」
軽く頭を下げる。経験上、こう答えれば大人は満足して立ち去ることを知っていた。だが、その女性は立ち去るどころか、隣に腰掛けた。そしてほたるの冷えた背中を、ほのかなぬくもりが優しくさすった。
「レーゲンシルム!……はい!これで雨、当たらないよ!」
女性はにっこりとあたたかい笑顔を浮かべ、こちらを見つめる。隣に座っただけでなく、雨除けの魔法までかけられたことに驚き、ほたるはぱちくりと瞬きをした。
「えっと、ありがとうございます……?」
「あ、でも濡れちゃってるから寒いよね!これ、タオル!」
女性は傍らに置いた小さな鞄からタオルを取り出して、ほたるに差し出す。そこでつい本音を吐露してしまう。
「乾かすのは、魔法じゃないんですね。」
そこでハッと口を噤む。
「ごめんなさい……。あんまり話すの、得意じゃなくて……。あたしと話したら、お姉さんに嫌な思いをさせてしまうかも……。」
「そんなことないよ!私ね、魔法はほとんど使えないんだ。使えるのは、この雨除けくらいだよ。……昔はもっといろんな魔法が使えたんだけどね。」
女性はなぜか照れ笑いを浮かべ、答えた。促されて受け取ったタオルは、お日様の匂いがした。ほたるは、自身の冷えた心が少しずつほころんでいくのを感じた。
「ところであなた、お名前は?」
「あたし、ほたる。碧見ほたる、です。」
「ほたるちゃんね!ほたるちゃん、とても悲しそうに見えたけど、何かあったの?」
「えっと……、実は――」
誰にも言えなかった悩みを、初対面のお姉さんに打ち明けられたことには驚いた。学校や、先ほど読んだ本のこと。お姉さんは真っ直ぐ目を見て、時折相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。話し終わる頃には雨も止み、雲の切れ間からは明るい陽が射していた。
「そんなことがあったんだね。」
そういうとお姉さんはベンチから立ち上がり、きらめく陽射しの中でくるりと身を翻した。金色の髪と真っ白なワンピースがふわりと舞って、輝く。やさしい笑顔は天使のようで、どこか儚げに見えた。
「じゃあさ、私とお友だちになろうよ!」
その申し出は突拍子もないものだったが、ほたるはその光景を心から美しいと思った。きっと本の中の主人公が見たどの景色よりも。
それがお姉さんとほたるの出会いだった。
それからお姉さんは毎日のように公園に訪れるようになった。お昼下がり、いつものベンチで待ち合わせをするのが暗黙のルールになっていた。
ある日、お姉さんは、ほたるに魔法のことを教えてくれた。
「魔法はね、心の動きにとっても敏感なんだ。悩みや気になることなんかで精神が乱されていると、上手く発動しないの。ほたるちゃん、学校の先生や周りの目が怖いって言ってたでしょ。魔法が発動しなかったのは、それが原因。ほたるちゃんには魔法の才能があるんだよ!だから自信さえつければ、すぐ一番になれちゃうよ!」
お姉さんに教わってからは魔法のコツを掴み、ほたるの魔法は驚くほどの速さで成長した。
それから少しずつ学校にも行けるようになり、友だちもできて、笑顔も増えていった。学校での出来事を話すたび、お姉さんは自分のことのように喜んでくれた。けれど、お姉さんは自分の話を一切しなかった。名前も、歳も、いつも何をしているのかも聞けないまま、月日は流れていった。
そして、落ち葉が公園を覆う頃。
何の前触れもなく、お姉さんは公園へ来なくなった。
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― CHAPTER6/7 別れと出会い ―
お姉さんが来なくなってから、どのくらい時間が経っただろうか。肌寒い季節が過ぎ、あたたかくなっても、ほたるは毎日公園へ訪れていた。
もしかしたら、今日は忙しいのかもしれない。
もしかしたら、友だちと遊んでいるのかもしれない。
もしかしたら、もしかしたら――。
不安をかき消すように、毎日いつものベンチに腰掛けて、本を読んで過ごした。
お姉さんは、自分のことなどどうでもよくなってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。お姉さんが自分を想ってくれていたことは、ほたるが一番よくわかっていた。
もしかしたら、もうお姉さんがいなくても大丈夫だというメッセージなのだろうか。そうだとしたら、公園へ行くのは今日で最後にしよう。
今日も魔法図書館で本を借り、公園へ向かった。お姉さんの真似をして伸ばし始めた髪が、春のあたたかい風に揺れる。
いつものベンチの方を見ると、先客がいた。金色の髪に、真っ白なワンピース。一瞬、お姉さんかと思ったが、背丈が小さい。ほたると同じくらいの歳の女の子に見えた。その子の手には、いつもお姉さんが身に付けている白いリボン。思わず、声をかけた。
「あの!そのリボン……。あなた、お姉さんのこと知ってるの?」
びくっと肩を震わせ、お姉さんと同じ色の綺麗な瞳でこちらを見上げる。
「う……、えっと、……ほたるさん、ですか……?」
視線を落とし、消え入りそうな声で発した言葉。まるで、お姉さんと出会う前の自分を見ているようだった。
「そうだよ!」
「やっぱり……。私、絵原こはくって言います。お姉ちゃんからほたるさんのお話、たくさん聞きました……。お姉ちゃん、いつもすごく、楽しそうに話していました……。」
絵原こはくと名乗る少女は、儚げな笑顔を浮かべた。よく見ると、お姉さんの面影を感じる。懐かしい気持ちで心がきゅっと締め付けられた。しかし、その笑顔はお姉さんよりずっと寂しげで冷たくて、遠くに感じる。
「さん、は付けなくていいよ!あたし、お姉さんにいっぱいお世話になったの。毎日お話聞いてもらって、魔法まで教えてもらっちゃって!でも急に来なくなっちゃって……。お姉さん、今どうしてるの?」
こはくは手の中のリボンをきゅっと握り直すと、絞り出すように言った。
「お姉ちゃん、もう、いないんです……。少し前に、病気で……。」
透き通った金の瞳から、ずっと堪えていたであろう涙が堰を切ったように溢れ出した。ほたるは、泣きじゃくるこはくを茫然と眺めていた。その報せはあまりに唐突で、実感が湧かなかった。もしかしたら明日、いつものようにこのベンチで会えるのではないかと思ってしまうほどに。震えるこはくの小さな背中を、ほたるは優しくさすった。あの雨の日、お姉さんがそうしてくれたように。
「こはくちゃん、でいいかな。ごめん。あたし、お姉さんがいなくなっちゃったって実感がまだ湧かなくて、信じたくなくて。こはくちゃんと悲しい気持ちが同じになれてない。上手く言えないけど、ごめんね。」
こはくは両手で顔を覆ったまま、顔を左右に振った。小さな背中をさすりながら、ほたるは続けた。
「あのね、お姉さんと初めて会った日、あたしもここでたくさん泣いてたんだ。お姉さんが話を聞いてくれて、悲しい気持ちを半分こしてくれて。こんな風に、初めて会ったこはくちゃんにも自分の気持ちを伝えられるようになったのも、お姉さんのおかげなの。だからあたしも、こはくちゃんの気持ち、半分こしたい。お話、聞かせてくれる?」
こはくは腕で涙をぬぐってから顔を上げ、真っ直ぐにほたるを見た。赤く腫れているが、先程よりもあたたかい笑顔を浮かべた。
「ほたるちゃん……、ありがとう、ございます。私、お姉ちゃんみたいに上手に話せないと思いますけど……頑張ります……!」
お姉さんは、ほたると出会う前から通院していたそうだ。『フェアリーレン』――その病におかされると、日に日に魔法の力が失われていき、やがて生命まで蝕まれる。お姉さんはその病気にかかる前は本当に優秀な魔法使いで、念願だった『みみめる』への昇格も決まっていたそうだ。だが、人間界へ派遣される一か月前に発症し――人間界へ行くという夢はあっけなく潰えた。
それからお姉さんは、家と病院を往復するだけの生活を送った。そんな生活になっても、天真爛漫なお姉さんは変わらず、明るくてあたたかい笑顔をこはくへ向けていた。
そんな生活がしばらく続いたある雨の日。お姉さんは金の瞳を輝かせ、鼻歌を歌いながら帰ってきた。
「お姉ちゃん、どうしたの……?」
「私ね、『お友だち』ができたんだ!」
「友だち……?」
「そう!その子、すごい力を秘めてると思うんだ!歳はこはくと同じくらいだと思うんだけど、魔法使いとしての力は私以上かも!だから、『お友だち』!」
こはくの心には一瞬、寂しさが過った。けれど、お姉さんのあまりに満ち足りた笑顔に、かき消されたのだった。
それから家へ帰る度、毎日のようにお姉さんはほたるのことを話した。魔法の練習をしたこと、学校のこと、笑顔が明るくなってきたこと――こはくはその話を毎日楽しみにしていた。日に日に、着々と前へ進んで行くほたる。その話を聞く度に、憧れは募っていった。こはくは今まで、魔法に関する科目がほとんどない一般の学校へ通っていた。この世界では、魔法が使えなくても一般的な生活はできる。こはくは、趣味であるお絵描きを楽しみながら、ごくありふれたゆるやかな人生を送ることを至極当然のことと思っていた。一方で、ほたるは厳しいと言われる魔法学校への入学を選んだ。苦しい思いをしても、少しの間学校から離れても、諦めなかった。自分にはないものを、ほたるは持っているのだ。
人見知りだけど、ほたるに会ってみたい。明日は一緒に公園へ連れて行ってほしいとお願いしようと姉の帰りを待っていた。けれど、その「明日」は来なかった。
その日、お姉さんは倒れてしまった。公園からの帰り道だったそうだ。病院へ運ばれたが、治療法の分からない『フェアリーレン』になすすべもなく――こはくが病院に駆け付けた頃には、お姉さんは亡くなってしまっていた。
「お姉ちゃんがいなくなった日、私、いつものように『いってらっしゃい』って、声を、かけたんです……。ほたるちゃんと会ってからは、毎日元気で……。お姉ちゃんが病気だってこともすっかり忘れて。突然だったから、実感も、しばらく湧きませんでした……。お姉ちゃんがいなくなったのをちゃんと受け止められたのは、お姉ちゃんの部屋で手紙を見つけた時でした。」
手紙には、こう書かれていたそうだ。
**********
こはくへ
この手紙をこはくが見つけてくれたということは、私はもう、死んじゃったんだね。
実を言うと、自分が死んじゃうことは少し前から分かっていました。唯一使えた雨除けの魔法も、もう使えなくなっちゃったから。魔法の次は、命を失うことになる。でもね、私、全然怖くないし、後悔もしていないんだ。今まで魔法の訓練ばかりで家にいられなかったけど、病気のおかげでこはくとたくさん話ができた!こんなに近くに、たくさんの幸せがあることに気が付けたんだ!
それとね、人間界にはこんな話があるんだって。「死んだら人は鳥になって、空を自由に飛びまわることができる。」だから、人間界へ行く夢もね、生きている内は叶わなかったけど、死んでからでも遅くないと思わない?鳥になって、人間界へ行くの!!だから、私がいなくなったら、人間界へ行ったと思ってね。いつかまた、絶対に会えるから。
こはく、今までありがとう。あなたが妹で、本当によかった。またね!
PS 私が使っていたリボンを同封します。これを持っていればきっと、ほたるちゃんに会えるよ。
**********
「この白いリボン、手紙の中に入っていたんです……。それで、この手紙は、ほたるちゃんへの手紙です。今日はこれを渡しに、きました。」
ほたるは震える手で受け取ると、そっと封を切った。
ほたるは読み終えた手紙を丁寧に折りたたんで、封筒に戻した。そして同封されていた白いリボンを手に取った時、ようやくお姉さんがいなくなってしまった実感が溢れて、涙が止まらなくなった。そして同時に、安堵した。やっとこはくと気持ちを半分こできた気がしたからだ。
今度はこはくが、ほたるの背中をさする。あの日と同じ、優しくてほのかなぬくもりを感じた。
日も傾き始めた頃、ようやく泣き止んだほたるに、こはくは言った。
「このリボン、よかったら、ほたるちゃんが持ってて、ください……。」
「そんな、ダメだよ!これ、お姉さんの形見なんじゃ……!」
「いいんです……!このリボン、お姉ちゃんの魔具なんです……。二つ揃って、本当の効果が出るって聞きました……。私には、このベレー帽があるから……。」
そういうと、こはくはかぶっている真っ赤なベレー帽を愛おしそうに撫でた。その表情はとても穏やかで。ほたるは何度も御礼を言って、受け取った。
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― CHAPTER7/7 私たちの居場所―
雨はまだしとしとと降っている。傘を手にしたこはくは、ほたるの待つ緑地へ戻ってきた。
「ほたるちゃんっ、お待たせ……!」
「わっ!!」
懐古の情に浸っていたほたるは、ふいに声をかけられたことに驚いて声をあげた。その瞬間、ほたるの膝の上にいた子犬が駆け出す。
「あ!待って!」
子犬を追いかけようと立ち上がると、子犬が走っていく方向のずっと先に、小さな女の子が立っているのが見えた。黄色の長靴に、レインコート。恐らく、飼い主だろう。子犬は女の子のところまで駆け寄り、尻尾を振ってじゃれついた。遠すぎて顏は確認できなかったが、女の子は子犬をたくさん撫でてから抱き上げ、緑地を後にした。
「よかった……。」
こはくは小さな声でそう呟くと傘を広げ、ほたるの隣に腰掛けた。寄り添ってひとつの傘に入る。ぽつぽつと心地よい雨音が響く。
「うん!よかったね!ここに来て、正解だったよ!」
「本当に。……緑地に案内してくれたお姉さん、どことなくお姉ちゃんに似てた、よね。」
「……そう、だね。実はあたしも、同じことを考えてた。」
「えへへ、そうだと思った……。今日ね、お姉ちゃんのベレー帽がなくても、初めて外に出られたんだ……。私にとって、すごく大切な日。それでね、いろいろ、思い出してたんだ……。ほたるちゃんと初めて会った日のこととか、お姉ちゃんのこととか。あれからもう、たくさん時間が経って。一緒にいっぱい勉強して、みみめるになれて、お姉ちゃんの夢を一緒に叶えられて。すごく、嬉しかった……。ここまでこられたのは、ほたるちゃんのおかげ。」
こはくはそこで、深呼吸をした。いつになく饒舌なこはくを、ほたるは見守る。
「それで……、今まではお姉ちゃんの夢を叶えるために頑張ってたけど、叶っちゃったから……次は何のために、どうしたらいいのかなって、考えてた……。使い魔も怖いし……。でも、今日は、いろんな人とお話して、たくさんの笑顔を見て。あの子犬と女の子もちゃんと一緒にお家に帰れて、きっと幸せ、だよね……。それを見て、気付いた。この世界にある笑顔とか幸せとか、守りたい……!これは、私の夢……!」
灰色の雲の隙間から陽が射して、こはくの髪や瞳が金の弧を描くようにきらりと輝いた。ほたるはその光景に思わず見惚れる。お姉さんの心が、そこに宿っているように感じた。
「やっぱり、こはくはすごいよ!あたし、こはくと出会った最初は、お姉さんの妹だから、守らなきゃって気持ちが強かった。頭のどこかで、こはくにお姉さんを重ねてた。だけど、こはくといっぱい話して、いっぱいの時間を過ごしてきたから、今はお姉さんって存在をなしにしても、ちゃんと繋がっていられる。今までは二人でお姉さんの夢を追いかけてきたけど、いちかやあまね、めるも一緒に、これからは五人で叶えていこう!ここからやっと、あたしたちの夢が始まるんだね!」
雨はもうすっかり上がっていた。開いたままの傘に、ふたりは顔を見合わせて笑い合うと、歩き出す。雨のあとがきらきらと輝く街と、七色の虹。水たまりを飛び越えて、みんなが待つあの場所へ。
「こはく、帰ろう!」
「うん……!」
その時、一羽の鳥が虹へ向かって羽ばたいた。純白の羽根がまばゆい光の中、舞い落ちる。それはまるで、二人の夢の始まりを祝福するかのようだった。
サブストーリーNo.2『雨と虹』 Fin
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